子どもは一番身近に存在する自然。母親へ投げる娘の言葉から学ぶ事。

森・海・山という全部タイプの違う自然と、眠らない街である都会の2拠点を行き来して過ごした7月。 

森では日が暮れ行く時間をじっくり体感し、鳥の声で目を覚ます。

そして、湧いてくる森の力を肌から感じたり。

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 4.5キロ海を泳ぐ大会の参加目的で訪れた新島では、青い海の中を全身を使って海を感じられることって楽しい、そしてありがたいなーと感じた。

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夜には波の音を聞きながら地面に寝転がり、満天の星空をバックに流れ星を見られたのが本当に嬉しかった。

 

屋久島では大きな山と無数にある滝や水、屋久杉から循環するエネルギーを強く感じたし。

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群馬の川場村では、5月に植えた時に頼りなかった稲がすっかりたくましく育った様に自然の生命力を強く感じて。

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 一ヶ月間、都会に生活しながらも、森、海、島、たんぼと言った「自然」と行き来する日々を送りました。

 

ある意味で、それは都会〜自然の「メンタル」面でのデュアルライフ(笑)だったのかもと、今、改めて振り返っています。

自然の大きな生命力や循環エネルギーの中に身を浸してゆっくり深呼吸する一方で、エネルギーを回す主体が「人間」で、日々のタスク、やり取り、時間感覚が都会のリズムの生活。

日頃からエネルギー高く元気に活動できるジブンではありますが、この都心と自然の行き来で感じる振れ幅は大きすぎたのかも?

自分の内面が大きく根底からシャッフルされ過ぎたのかも??

一通りの大自然探訪を終えた7月末ごろから、ザワザワした感覚が内側に上がってくるのを止められない感じになった。

 

8月に入ってやっと何かが沈殿して分離した自分の中で沈殿物としての「何か」が見えてくるような感じがしてきた頃のこと。

高2の娘に

「いろいろ動いた7月の1ヶ月間は素晴らしかったけれど、いろいろあり過ぎたかもなぁ。自然の中にいるのは楽しいし、東京での活動も面白い事ばかりで全部頑張っちゃったけど、かーさん自身がそれに追いつけなかった感じだなぁ。ちょっと混乱しちゃってるかも。」

と、独り言と言うのでもなく、かと言ってきちんと聞いて欲しいというのでもない調子でつぶやいた。

すると、娘から

「うん、そうねぇ。やりたいと思う事を全部やっていると、そうなるのよ。」

という絶妙な大人コメントが返って来た。

あー、してやられたって感じ。

全く何も言い返せず。

「はい、そうですね。おっしゃる通りです」と答えたジブンでした。

笑。

 

娘の言葉で思い返した事。

5年ほど前、私が大きなチャレンジをしようかどうしようか思い悩んでいた時の事で。

当時中2だった息子に、

「あー。かーさんはきっとこれにチャレンジするってわかってるんだけど、いざやるとなると踏ん切りがつかないなー。どーしよーーーー。」

とジタバタ言ってたら、彼は、「やれば?」とか「やめとけば?」とは言わずに

「うーん。やらなかったらゼロだしねぇ。」

と一言だけ。

その言葉で「はっ!!!」と目が覚めた私は、すぐその場でチャレンジすると決めた事あったのを思い出した。

 

「やらなければゼロ」と「やりたい事を全部やっていたら混乱する」という二つは、互いに相反した言葉だけど、どちらも深い真理をついている。

一つの出来事をどちらの面から見ているか、という事かと。

二人の子どもたちは、その時々の私の状態に見合う言葉を素直に言っただけなんだけれど、その二つの間で上手にバランスをとっていけたらいいんだよね。

そうしたら、シャッフルされて、未だ形を表してはいない「何か」も見えてくるのかも。

 

自然から大きな循環や生命エネルギーとかを感じた日々だったけれど、とんでもない。

子どもから大人に変化中の思春期の子どもたちと言う大きな生命エネルギーが、自分の一番身近なところに存在していたのであった。

今さらながら感慨深かったけれど、人間て、紛れもない「自然」なんだよね。

 

ついつい身近なことを疎かにしてしまいがちな自分に対して、意識の軸をびしっと整えさせられた出来事だった。