春分の日に思い返すべきたった一つの大事な事。
春分です。
お日様が真東から出て真西に入る、昼と夜の長さが同じになるトキ。
ちなみに「自然をたたえ、生き物をいつくしむ日」として春分の日が国民の祝日になったのは1948年のことらしいです。
戦後のそんな時期にそんな流れがあったんですね。
私には、この春分を迎えると必ず思い出す言葉があるんです。
「枯れ木に花咲くを驚くより、生木に花咲くを驚け」
という、江戸時代中期の哲学者であるという三浦梅園の言葉なんですが。
そう、人ってビックリする様な「奇跡」を望みがちですよね。
もちろん私もその一人です。
例えばSNSで流れてくる「驚き」の映像や動画とか。
大好きです。笑。
それはカンフル剤のように瞬間的にこちらの心を掴んでくるけれど、静かな気持ちで大事に慈しむべきことは何かと問いたならば、それはとても当たり前に流れて行く日々の営みの方なんですよね。
それを思い出させてくれるのが、この三浦梅園の言葉。
先週末、昨年よりご縁があって何度か訪れている群馬県の川場村と言う所に行ってきました。
ここは霊峰武尊山からの雪解け水が流れ込む素晴らしい里山なのですが、まだまだ、あちらこちらに名残の雪がたくさん残っていました。
この写真は、夏には一面が野生のハーブガーデンとなる素晴らしい場所を撮った一枚。まだまだ厚い雪に覆われていて、緑に見えるものも一切ない様子。
でも、雪解け水が小川にザーッと流れ込む音はとても勢い良くて元気があって、聞いているだけで自分の身体の細胞にも雪解け水が満ちてくる様な、活力がモリモリ湧き上がってくる様な気がしました。
雪解け水は清らかで小さな滝となってほとばしり、
透き通る小川に流れ込んでいる。
その一連の流れは限りなくシンプルで、そしてとても美しかったのですが、これが幾万年もずーっと繰り返されているという事、さらに日常的な意味ではこの小川の流れが私たちの水源に繋がっている事を思ったら、この流れを当たり前に思っては決してならないと感じました。
自然て、とても当たり前なこと。
でも、大らかで優しい「当たり前」に隠されている本当に大切なものを見いだすのは、案外とても難しいということ。
街角にはあちらこちらに可愛らしい梅の花が咲いていますし、
街角のお庭のミモザの黄色が柔らかだったり、
庭先に手入れされたプランターの花たちも鮮やかで。
神津桜に、
大島桜。
鎌倉の鶴岡八幡宮境内に咲くミモザは満開で、それはとても見事でした。
日々生活をしていると、いろいろな事が起こります。
嬉しくて楽しくて、大声で口に出して皆に言いたくなってしまうような素敵なことも起これば、一生懸命やっても報われなかったり思わぬ誤解を受けてしまったりして、自分の向かう先がどこなのかわからない程に迷子になって、自分がとてもちっぽけな存在に感じてしまう様なことも起こります。
私にも、そんな事がたくさん起こりました。今でも時々起こります。
私ももがいてあがいて。
でもそんな時に私が信頼する先生に教わった事は「そういう時は、ふだん当たり前だと思っている事に意識を向けましょう」という事でした。
人間と言うものは、たとえどんなに日々の生活の90%が幸せに満ちていたとしても、ほんの10%の不快な出来事によってその幸せ感が簡単に覆されてしまう弱い存在だそうです。
幸福よりも不幸を強く感じるのは、古くからの人間の生存本能の一つである危険回避能力の過敏な形でもあるので、ある意味仕方がない事でもあるそうですが、だけど、本当に目を向けるべき所はそこじゃない。
目を向けるべき所は、
とても基本的で当たり前の事。
朝には日が昇り、春になったら花が咲く事や、
朝にはすっきり目覚める事ができる事とか。
蛇口をひねったら水が出て、それをごくごく飲む事が出来る事とか、
どこかに行きたいと思った時に、電車がきちんと動いている事も。
そして、家族が元気でいること。
なにより、自分がここまで生きてこの人生を経験できている事。
今辛いと思われる10%のしんどい事を乗り切るために必要なのは、幸せと感じられる小さくても当たり前な事を、心の引き出しからいつでも自由に取り出せる状態にしておく事。
私はこれを「小銭貯金」と呼んでいまして(笑)、日々のささやかな楽しい事を少しずつ心に貯めておき、何かあった時にはすぐに取り出して、沈んだ心にハッピーを補充する補填貯金としています。
春分のこの時期こそ、新しい芽吹きをたくさん味わって、心の貯金にコツコツ溜めて行く事。
当たり前ではない当たり前の恵みを今一度じっくり感じる事。
それこそが日々の自分の幸せ感を強め、なんてことのない日常さえも楽しく過ごす唯一の秘訣と思います。
春分という日に、改めて「当たり前」に感謝。