節分と、心に「鬼」を招き入れるということ
本日、2月4日は春分。
冬(寒さ)のピークでもあり、春の始まりでもある節目のトキ。
そして、昨日は節分。
季節の変わり目に現れる邪気を払うために行うと言う豆まきですが、我が家では、息子が19歳、娘が16歳になった今もなお、家中の窓と言う窓を全開にして一切照れる事なく
鬼はーーーー外ぉーーーーーー
福はーーーーーーー内ぃーーーーーー。
と大きな声で豆まきをします。
(父親はいつも帰りが遅いので、これまでこの行事に参加した事はないはずw)
目に見えない鬼を思って豆を打ち、目に見えない福を呼びますが、今年は年女の私が張り切って豆を撒きました。
いくつになっても、結構楽しい行事であります。
ところで、この豆まきの行事。
これって、家の戸や窓を開けて、鬼が一度家の中に入れる隙間を作っておき、鬼が入ってきたら追い出すことに意味があると聞いた事があります。
この「鬼〜人間」間のやり取りに意味があると。
そう聞いてなるほど!と思いました。
つまり、ここで言う鬼って、きっと、牛の角を生やしてトラのパンツをはいた姿の「鬼」に限らないって事なんだろう、と。
つまり、いろいろな出来事を象徴する上での「鬼」としての存在。
そう、思いがけない不幸や災難、仕事上の失敗、他人との葛藤、人間関係のトラブル、もっと小さな事でも普段感じるちょっとした違和感とか。
順調に日々を過ごしている時に、思っても見ない形でそんな事に遭遇すると、緊張してドキドキしたり、胸が締め付けられる想いになって憂鬱に落ち込んだりしますし、度合いに寄っては周囲の人も巻き込んで大騒ぎになりますし、本当に大変な事になります。
当然ながら、かく言う私も何度もそんな経験をしてきました。
でも。
そんな窮状や苦しかった事、やり取りに苦難した人、辛かった経験、そんな事を自分に取込んでなんとか消化してきたからこその「今」。
そんな思いがけないものと接する事でこそ、自分は成長してきたと感じるのです。
私が主催しているVision Quest女性勉強会で先日講演頂いた伊藤綾さんはもちろん、第1回目ゲストの田島弓子さんと金澤悦子さん、そして2回目ゲストの篠田真貴子さんも、自らの失敗や劣等感、ダメだった経験が今の自分を創ってきたとお話して下さいましたし、「自分だけの今」を大切に生きていらっしゃる方は皆さん同じ事をおっしゃるとつくづく感じます。
そこでふと思い出したのが、私が子供の頃から本棚に持ち続けている古い絵本「おにたのぼうし」(文:あまん きみこさん・絵:岩崎ちひろさん)
ここに出てくる「おにた」は決して悪い鬼ではありません。
気のいい黒鬼の子どもで、物置小屋に住みながらもちょこちょこ家人のために良い事をしていましたが、節分の晩に、とうとうその物置小屋を追い出されてしまいます。
雪の中、柊もなく豆の匂いもしない家にたどり着いた先には、病気で寝ている母親と、看病する小さな女の子がいました。おにたは、何も食べていないその貧しい女の子に煮豆と赤ご飯を運びます。
しかし、そんな親切にも関わらず、その女の子は鬼を悪いものと信じているのを知り、おにたはそこから突然姿を消してしまいます。
一体、鬼と福の神の違いはどこにあるか、それはもうよくわかりません。
でも、「鬼」とは「鬼ではないもの」と捉える方が断然良いような気がするのです。
自分にとって「鬼に感じられる出来事」を、どうやって自分に取込んで行くか。
自分に限界を設けない事も大事でしょうし、その先にある何かを想像する想像力や希望を持つ力も必要だと思います。
季節の変わり目、暦の節目に行われる豆まきという行事。
家を開放して鬼をいったん招き入れ、仲良くなった上で手放し、改めて福の神を招き入れる。
そこで交わされる余裕と遊びのある関係こそ、自分を活かして行く力になるのではないかと思います。
これからは、卒業や進学、転職や就職といった別れと出会いの季節。
かく言う私も、実は新しいフェーズに向かおうとしています。
何かと落ち着かない変化の時期ですが、ある意味では、生きて行くって事自体がそんなものですしね。
節分という節目に大事な事に気づかせてくれる楽しい行事が日本の豆まきなのだとしたら、歳の数だけ豆を食べるのが大変になっても、鬼を呼び込み豆をまいて福の神を呼び込む豆まきは続けて行きたいと思います。